テレゴニーについて

みなさんテレゴニーという言葉をご存知でしょうか?

Wikiよれば
テレゴニー(telegony)は、ある雌が以前ある雄と交わり、その後その雌と別の雄との間に生んだ子に、前の雄の特徴が遺伝する、という説、理論。つまり未亡人や再婚した女性の子は先の夫の性質を帯びる、という考え。19世紀後半までは広く信じられてきたが証拠は見つかっていなかった。 現在では類似の現象がハエで発見されている。日本語では先夫遺伝(せんぷいでん)、または感応遺伝(かんのういでん)と呼ばれる。

ですが、ちょっと前は
テレゴニー(telegony)は、ある雌が以前ある雄と交わり、その後その雌と別の雄との間に生んだ子に、前の雄の特徴が遺伝する、という説、理論。つまり未亡人や再婚した女性の子は先の夫の性質を帯びる、という考え。19世紀後半までは広く信じられてきたが現代科学では否定されている。
いるです。

このテレゴニーについては現代のタブーの一つで、一般的には議論されることはあまりない言葉です。今回はこのテレゴニーについてSFしてみたいと思います。


まず、テレゴニーが存在するかどうかについてですが
私はテレゴニーは存在すると思います。

むしろ、テレゴニーを否定する事は人間に対する冒涜だと思っています。
その根拠については遺伝というのは遺伝子だけで行われるものではなくて
遺伝子+その発露条件+睡眠、負荷、栄養などの環境
と複数の要素で決まってくるからです。

とある夫婦がいて子供がいたとします。
母親は思います。「あれこの子、元彼にすごく似ている」
父親は思います。「あれこの子、憧れの〇〇ちゃんに似ている」
トリックとしては簡単です。夫婦の元彼はスポーツマンで父親の憧れの人もスポーツマンでした。

夫婦はスポーツをやっている人に憧れがあったため子供にスポーツやらせていたのです。そして子供にはスポーツマン特有の身体的な特徴が表れて、それを勘違いしたのです。
ようはその夫婦では発動しなかったスポーツに関連する遺伝子が外的要因により子供では発露したという事です。

もっとシンプルに述べると遺伝子の発露と実行は人の意思の影響を受けます。ですので元彼、元カノへの思いというのを子供が引き継ぐという事です。
結構、ロマンある話ではないでしょうか?

あと、テレゴニーを否定してしまうと、兄弟や姉妹でなぜ大きく姿形が違うのかという純然たる事実を否定してしまう事や遺伝子におけるエピジェネティクスが説明がつかなくなってしまします。

ちなみにエピジェネティクスとは
DNA塩基配列の変化を伴わない細胞分裂後も継承される遺伝子発現あるいは細胞表現型の変化を研究する学問領域
です。


純粋な科学論からアプローチすると女性の子宮の入り口には精子を判定する機関があるそうです。そこで自身の思い沿った遺伝子を持つ精子を選別している可能性や精子の情報が何らかの形で女性の体に記録され卵子に組み込まれるとか、遺伝子の発露に影響を与えるなども考えられます。


もう一つのアプローチとしては畜産業界での経験則です。
畜産業界特に犬、猫のブリードではテレゴニーは常識となっています。
こちらを順番に分析していくと・・・・

・犬猫というのは種類によって非常に大きな差があり
 下手すると同じ種族とは思えないくらい大きさや見た目がちがう
・純血種という犬は遺伝的には劣勢で油断するとすぐに雑種になってしまう。
・純血で尚且つ高い能力、容姿持たせる事はできるが、遺伝的にはさらに劣勢となる。
・上記でいう劣勢とは病気がでるとか、体が弱いという意味ではなくて、遺伝的に子孫のその要素が伝わらないという意味である。

そりゃあ、テレゴニーの有無にかかわらず純血種同士とか相手を選んで交配させるでしょう。これに環境により遺伝の発露が変わるという事実が加わると、リスクを背負いたくないのでテレゴニーはあるものとして扱うと思います。

上記に書いた事は人間でも同じで優秀な見た目や能力を持つ人間というのは実は遺伝的には劣勢なのです。ひどい話ですが昔の支配者階級の嫁となるものに処女性が求められたのも仕方がない事だと思います。
優秀な能力を発露する子供が生まれないとその一族や民族は絶滅してしまうわけですからね。

その一方で犬、猫のブリードにおいては同じ純血種の中であれば乱婚状態とする場合が多く1回目と2日目で父親を変えるというのを頻繁に行ったりします。
逆にこちらは遺伝子の発露に幅を持たせるための処置だと思います。


最初にテレゴニーを否定する事は人間に対する冒涜だと思っています。
と書きましたが逆にテレゴニーは女性の尊厳を冒涜しているという意見もあります。

私は逆だと思います。テレゴニーが存在するなら女性は自身が望む子供を、その思いによって作る事ができるという証明になるからです。

まあ、一説には日本では支配者層は単一婚で花嫁の処女性を重視し、庶民層は乱婚で血筋にこだわらなかったという、日本人としての背景が私にそう思わさせているのかもしれません。

でわ、この辺りで。

トランプ大統領の政治目的と信念

今回は現アメリカの大統領である。トランプ氏についてSF(思考遊戯)したいと思います。

氏については対抗勢力が多く、本当の意味での彼の政治目的や信念については深く語られる事はありません。これをぐっと掘り下げていきたいと思います。

氏は一説にはアメリカの中間層の不満を吸収する形で支持を集め大統領になったと言われています。また、既存の秩序やプロセスに沿わぬ行動をするとか、暴言、虚言癖などなど・・・


氏が大統領になった後に私が一番、驚かされた行動はイスラエルアメリカ大使館移転問題です。この移転、決定にて氏は随分といろいろなところから叩かれたようですが・・・
詳しく調べてみると、驚くべき背景がありました。それはこの決定が10年以上も前にアメリカ議会で決定されたにもかかわらず、実行が保留されていた事です。

つまり民主主義の原則に沿って議会で決定された事が大統領もしくはその政務執行者により保留されていたわけです。このアメリカ大使館移転がいい事なのか悪い事なのかはさておきとして、民主主義の原則である多数決で決定されたなら良い悪いにかかわらず実行されなければいけません。

この民主主義の原則がアメリカで守られていなかった事に驚きました。
どちらかといえばトランプ氏というよりかは、アメリカの歪な政治に体制にです。


また、氏は自身が掲げた公約を頑なに実行しようとして、大統領の持つ権限を最大に活用して行動しております。これが強権だとか独裁だとかと批判を浴びているのですが・・・これまた、おかしな話です。
民主主義の国家元首という立場の人間には民主主義の弊害である。決めれないという欠点を防ぐために自由裁量が与えられています。
この自由裁量を選挙民=アメリカ国民との公約を実施するのに使っているの何故か批判を浴びると・・・
また、マスコミや外圧からの批判がものすごいのに支持率は一向に落ちる気配はありません。


この事よりトランプ氏が大統領になれた背景としては
「どうして人数が多い私達国民が生活が苦しかったり、政治に不満を持つのか?」
という事ではないかと思います。
民主主義の原則に当てはめるな国民の大多数を占める中間層の人々の意見が最も優先されるべきです。そのために選挙を行い議員や大領領を選ぶのですが・・・
ここ近年のアメリカはちがったようです。


共産貴族という面白い言葉があります。社会主義共産主義国家の誕生に伴いあらたに生まれた支配者層を指す言葉で良い意味には使われません。
キューバーのカストロ首相が日本の共産主義系政治家とのコンタクトを断った時にこの言葉を使ったとの事です。
ようは社会主義国家においてはすべての国民が国家に奉仕しなければならないのですが、その模範となるべき支配者層が旧来の独裁政治と同じにように私利私欲で動いているのは皮肉った言葉です。


どうやらアメリカでも共産貴族に相当する民主主義貴族が誕生していて政治システムへ悪影響を与えたいたようです。
現在、トランプ氏がアメリカで取り組んでいる事は
「決められた事は決められたとおりに行う。信用できる相手との約束は必ず守ろうです。」
そのため、イギリスの新聞は氏を以下のように評しました
「トランプ氏は政治家ではない、何故なら彼は公約も守るからだ」
イギリス人のユーモア感覚というのは面白いですね。

アメリカ民主主義貴族の悪行としては不法移民の認定やポリティカルコネクトの推進、企業の利益の不平等な分配などが有名です。
アメリカの企業ならアメリカの国奉仕する義務があります。アメリカという政治体制を利用して商売を行っているためです。)


とはいえ氏の発言を定期的に追いかけていると氏のスタンスは特に驚く事ではありません。氏は大統領演説にて「政治を国民の手に取り戻す」と発言しております。
当時の私はこれが何を意味するかを理解していませんでした。

これは多数決主義的な意見による政治執行を妨害する民主主義貴族の排除とその政治体制の変革を意味している事です。
そして、それを実行する方法は「決められたルールを遵守する」という、ひどくシンプルなものです。


氏が大統領に就任してから、着実にこの実績を積み上げたためか、アメリカ議会と他国からの批判は随分と減ってきました。氏は交渉も何も通用しないモンスターから冷徹な政治の実行者へと評価が変わったわけです。
トランプ氏とほぼ独断で早期にコンタクトをとり、約束を取り決めそれを忠実に実行しあう仲に持ち込んだ安部首相の着眼点もなかなかのものです。


とはいえ、氏がはた迷惑な人物であるというのも確かです。氏によって起こされた政治的な混乱の第1弾は終了し、第2弾である中国との貿易摩擦への突入しています。
中国とアメリカが戦争をするか?これは中国側の対応に委ねられています。中学が今までのようにルール無視を繰り返すなら確実に戦争になるでしょう。
ただ、直接的な戦争になるかというとそれは疑問があります。

私の予想ではアメリカ~中国間で経済冷戦が何年か実施され、その後に中国が暴発して武力を行使しあうパターンになるのではないかと思っています。
もちろんソ連との冷戦のように中国が崩壊、分解するというパターンもあります。


氏が次に引き起こす問題はアメリカの民主主義貴族に対する規制だと思います。おそらくはアメリカ議会や大統領選のルールなどを弄ってくると思います。その時におそらくは大きな騒動があるのですが・・・安部首相の任期が終わる3年以内に起こって欲しいものです。

でわ、この辺で。

体罰の是非について

ここ最近、スポーツ界でのパワハラモラハラ体罰の問題が頻繁に世間を騒がしているのでそれについてSF(思考遊戯)したいと思います。

まず、体罰=暴力を伴う指導についてですが、これは効果があると思います。
ただし、一長一短という言葉があるように高い効果がある分、デメリットも大きいかと・・・

ですので体罰の是非はいくつかのケースで考えてみたいと思います。
①動物の訓練、調教、しつけ:体罰が容認される。
②軍人、警察官の教育課程:限定的に体罰が容認される。
③スポーツの指導:体罰が原則容認されない。


まず、①についてですが動物は言葉で物事の善悪を理解する事ができず、体験による経験で善悪を判断します。
ようするに何かをやって、良いことが起これば良いことと認識するし、その逆の場合は悪い事と認識します。ですので体罰=暴力を伴う指導というのは必然となります。

②の場合はどうかいうと、彼らは職務上で暴力を行使する事を許可されています。そのため、その教育というのは世間一般で行われるものとは少し異なります。
軍隊の新兵訓練や警察学校の一定の期間などはかなり厳しく指導され、暴力などを使われるケースもあるかと・・・ただ、彼はマーダーライセンス、殺人許可証を持つ立場となりますので上記に書いたように一般論に当てはめては判断はできないと思います。

①②のケースでどうして大きな問題にならないかというと上記に書いた事情に加えて体罰=暴力による指導を研究して運用しているからだと思います。
①のケースであれば、体罰の運用を間違えると調教師、訓練士は動物から攻撃をうけて最悪は死に至ります。
②についても銃器や武器を伴うわけですし、特に軍隊は効率を重視するので体罰の結果として何が起こったかをキッチリと評価すると思います。
要するに体罰=暴力を伴う指導をかなり研究して運用していると言えると思います。


③の場合についてですが私は原則的に体罰は禁止にすべきだと思いますが・・・なかなか無しにできないという事情もあります。
想定されるパターンは三つ
③-A 小学生以下の指導
③-B 中学生以上の学生向け指導
③-C プロ選手への指導

まずは③-A、小学生への指導における体罰ですが、この年代の子供は未発達の状態です。いうなれば①に近い要素を持っています。
ですので体罰=暴力を伴う指導が非常に有効なため、なかなかやめたくてもやめれないという悪循環に陥りがちです。

また、優秀な子供ほど扱いが難しく、指導には強い刺激が必要でついつい暴力を使ってしまうと・・・これに自身の子供の扱いづらさを知っている保護者がそれを容認するという事情が加わりさらに問題はややこしくなると思います。

時間がかかるでしょうが、このケースはより指導に効率的な刺激を研究する事とガイドラインを定めて情報を開示しながら、時間をかけて取り組むしかないと思います。特に現状ではあまり行われていない保護者の教育にはもう少し労力を割いてもいいと思っています。
ただ、時間をかけて取り組めば、必ず成果がでるでしょうし、実際に減ってきているのが現実です。

③-B、中学生以上の学生についてですが、これは時間をかけて指導者側に教育を行った事により改善傾向にあります。あわせて生徒側へ指導へもう少し力をいれれば、近いうちに解決するのではないかと思っています。


一番問題なのが③-C プロ選手への指導です。このプロ選手の場合は範囲が非常に広くなります。いわゆるスポーツエリートと呼ばれる選手は中学生くらいからはセミプロとして活動しているからです。特に肉体のピークが20歳前後である女性にアスリートについては中学生でプロに相当する活動を行っているケースもあります。

③-Cでの体罰を防ぐには体罰がないと成果がだせない指導者と選手に制限を加える、排除する事だと思います。ここでのポイントは選手も罰せられる立場に含めたことです。
体罰=暴力を伴う指導というのは非常に効果が高いため、選手側がそれを望んでしまうというケースがあります。また、プロである以上は成果をださなければいけない・・・
暴力的な指導で成果をだしている指導者と選手に制限を加えたり、排除するのは非常に勇気のいる決断です。落合監督は自身の球団で体罰をなくすのに2年を要したとコメントし、どうして最も早くできなかったのだろうか?と悔やんでいましたが・・・私から見ると2年でも十分早いと思います。

オリンピックも近いですし、日本のスポーツ界は勇気をもって決断するべき時なのかもしれません。
ちなみ世間を騒がして体操の選手とコーチの場合はコーチを罰するのではなくて、生徒、コーチをセットで根気よく指導しつつ、状況によっては両者に罰則を与えるべきだと思います。彼らはある種の絆で結ばれているわけですから、引き離すのはよくないと思います。


ちなみに所謂、格闘技系のスポーツでは体罰はあまり問題となりません。というのも①に近いものがありで下手をすると指導者側が選手側から攻撃されるからです。
まあ、かわりモラハラパワハラなどの体罰を伴わないものは多いようですが・・・
また、相撲のかわいがりというのも判断が難しいです。相撲取りの体というのは一般人にとっては明らか凶器です。そして、相撲取りになるような人は気性が激しく中途参加の人も多い・・・これを暴力無しで指導なると・・・相当な難易度です。これは②のケースに近いものがあります。

①のケース、犬のしつけ、訓練においてアメリカが体罰無しの褒めるしつけ、訓練がはやった時期があります。
結果は・・・トラブルが増える事態になりました。
そのため、今は犬にあわせた適切な刺激でしつけ、訓練を行い、必ず陽性強化といって褒める、ご褒美を組み合わせて行うという事になっています。
上記で書いた適切な刺激というのが非常に厄介です。犬種やその子の性格によっては適切な刺激でも虐待に見えるケースもあるためです。

私自信を振りかえってみると、子供への体罰は容認派でしたが・・・その運用にはかなり注意を払っていました。小学生以下の幼少期には頭は絶対に叩かないようにするとか、小学生の時は最後の最後の手段にするなどなど・・・
そして、自分のやってきた事が正しかったかと言われると・・・その時のベターな選択を選んだつもりではありますが、正解とは胸をはって言えないという感じです。


最後に③-Cについてですが、指導者と共に選手も罰するべきだという意見は現状はほとんど上がっていません。プロ選手と指導者については指導者側が体罰=暴力を伴う指導をやりたくないが行っているというケースもあると思います。
ようするに周囲や選手との関係でやらざるを得ない、そして何時の間にか歯車が狂ってしまう・・・協会の上層部と言われる方々の勇気ある決断が必要ではないでしょうか?

では、この辺で

内柴 正人について思う事

 このブログは匿名で書かれています。
 これは名前をだして書くにはナーバスな話題を取り扱うためです。
 というわけでかなり危険な柔道の内柴氏に関する事をSF(思考遊戯)したいと思います。

 内柴氏は柔道の金メダリストで指導者となってから、女性がらみで問題を起こし犯罪者として服役し、社会復帰した人物です。
彼の現状は以下のカテゴリーから振り分けられます。
①社会的に道義劣る事を行った元犯罪者
②社会的な道着責任はない元犯罪者
③社会的に道義劣る事を行った冤罪被害者
社会的な道着責任はない冤罪被害者

 前半部の社会的道義責任については教え子と性的関係を持った事を起点して、指導を行っていた短大側から解雇を言われた事より明らかなため①もしくは③になると思います。


 では①と③をもう少し深堀していくと
*:氏は罪を犯した犯罪者である。
*:氏の犯罪は不明だが状況的には罪とわれても仕方がない。
*:氏は犯罪を起こしておらず冤罪被害者である。

 上記では少し狭いのでもう少し解釈の幅を広げると
A:氏は罪を犯した犯罪者である。
B:氏は犯罪に問われるに相当する人物で犯罪行為を行った。
C:氏の犯罪は不明だが状況的には罪に問われて仕方がない。
D:氏は犯罪に問われる人物ではないが法的解釈の曲解により犯罪者となった。
E:氏は犯罪を起こしておらず冤罪被害者である。

 何処に相当するか考えていくのだが・・・
 それには法律の性質というのを理解していく必要があると思います。

 どいう事かというと法律というのは物事の倫理や正誤を問うものではなく、共通のルールにすぎないという事です。
 たとえば虐待を受けている子供を保護した社会人がいた人がいます。道義的には優れた事ですが、残念ながら子供の保護者からは誘拐犯として扱われる可能性があり、手続きや状況証拠によっては犯罪者となるでしょう。


 ですので法律に関する事はなるべく風評被害や道義的責任から切り離して考える必要があります。そして、犯罪のカテゴリーを理解する必要があります。
 犯罪には重犯罪と軽犯罪があり、重犯罪は殺人、強盗、強姦、傷害、麻薬と言われていますが・・・強姦、傷害、麻薬辺りは軽犯罪との境目が曖昧です。

 彼が法律で最終的に認定された罪は準強姦罪です。
 詳しくは検索して調べて欲しいのですが、これは暴力をつかわずに女性に性行為を強制し、行ったという罪です。
 これが重犯罪とよばれるカテゴリーのモノとは明らかに異なります。
 といいますのも、その場で合意があって性行為を行った場合でも相手側が後日、合意がなかったといえば通ってしまう可能性があるためです。つまるところ氏が問われて罪というのはカテゴリー的には重い罪ではないという事です。

 同様のケースとしては傷害罪があります。これは正当防衛という権利が絡んでいるためです。法律では人を傷つけたり、害してはならないとしていますが・・・その一方で攻撃してくる人間を傷つけ害して、自分を守る権利があります。

 そこらあたりを加味すると、金メダリストで指導者であるという社会的道義責任を切り離して考えると、氏は酷い犯罪者でないと思います。そして、これは判決ででた罪状からの判断です。
 もちろん彼の社会的道義責任とは別の話です。


 そして、これに日本独特の仕組みが加わります。日本というのは起訴を行われると高い確率でそれが覆る事はありません。
 日本の警察官は直接的な武力を行使する事が難しいので、起訴=有罪という流れは警察機構の力を保つうえでは重要な武器になりますが・・・過去に冤罪という問題を起こし、現在進行形でそれが続いています。

 内柴氏について元知事が「裁判で罪が確定していないのに、認定を取り消すのはいかがなものか?」というコメントを残していますが・・・これは過去の実績から判断すると妥当な面があると共に歪な運用が行われている日本の法制度にたいする警告でもあると思います。

 つまるところ、内柴氏については実際の犯罪行為に関係なく、起訴された時点で犯罪者と認定される可能性が高かったという事です。そして、頑なに無罪を主張したためか、過去の判例外に重い刑罰を与えられています。
 内柴氏の擁護派には彼の道義的責任や罪状からではなく、上記の仕組みから彼の擁護を行った人も多くいます。それが痴漢犯罪の冤罪問題など大きな社会的問題に繋がっていうためです。


 これら事情を加えると「氏は酷い犯罪者ではない。」→「服役するレベルの犯罪を起こした人物なのか?」という形で少しランクアップすると思います。


 さらに、この当時はフェイクニュースという言葉はありませんでした。まだまだ、マスコミが力を持っていた状態で白を黒にする事も可能でした。

 この事件の後に美人局犯罪ブームがこの後に起こり、日本の法的機関は対応に追われました。また、マスコミも内柴氏の名誉回復を行おうとして・・・非常に混迷した状況にあります。
*2016年に発生した高畑事件 刑事事件として逮捕されたが起訴されず
*2017年のフジテレビによる内柴氏へのインタビュー


 こういった事件に対しては私達は面白がったりとか、便乗するのではなく、自身の基準もって冷静に接する事が巡り巡っては自信の身を守る事に繋がるのではないかと思います。

 私自身の彼に対する評価としては「柔道の指導者として非常に相応しくない行為を行い。状況的には罪問われざるをえない状況にあった人物」です。
 氏は新天地キルギスで再起していくとの意向で国籍の習得すらも考えているとの事です。日本での風評を覆す事は難しいので、この判断は正しいと思います。ただ、応援するか言われると・・・それは?です。その一方で安易な批判もしません。

 その一方で氏に類するような人物に対する救済措置がほとんどない日本を少し寂しく思います。私自身に当てはめた場合も・・・冤罪に巻き込まれた時は日本や地元を捨てざるをえないという、覚悟をもって生きていく必要があるのかもしれません。

富野監督がGレコにこめたもの

今回の投稿は思いついた事を記載する形なのであまり思考遊戯(SF)していません。

富野監督の作品は娯楽としてもさておきながら、氏の独特の感性から感じた世の中の流れみたいなモノを作品に込める傾向があります。
富野監督の最新作と言っても少し古いですが、非常に実験的な要素が強い作品であるGレコンギスタにもそれが当てはまります。

実は私はこれを読み取れておりませんでした。それを書く作品がすべてBADエンドになったり、恋愛ものを書くつもりが血と硝煙が蔓延する羽目になる、曰くつきのクリエイター虚淵氏が分析してくれました。


彼のGのレコンギスタに対する評価はいろいろなのですが、その中も面白いのは「物語に酔う人々」というのを評価しています。

どういう事かというと、主人公のライバルにあたる青年は被差別階級の出身でその階級の社会的に地位の改善をもくろみ戦いに傾倒していき、恵まれた立場である主人公に憎悪をつねらせ敵視しているのですが・・・一方通行で終わります。主人公はライバルをほとんど相手にしません。

しかも、主人公のガールフレンドは同じく被差別階級出身ですが自身の階級に対しての思いはライバルとは全くことなります。
虚淵氏はこれをライバルが「物語に酔っている状態」と評しました。

まあ、これだけならいいのですが・・・例のモリカケ問題や杉田氏のLGBTに関して報道機関が現在進行形で起こしている問題をみると・・・
富田氏が作品の中で表現した「物語に酔っている状態」そのまんまと言えます。

そして、氏はこの問題に対する解決方法としては「自分目で見て確かめる」を提案しそれに基づいて主人公側の陣営を動かしていきます。


富野氏がこの作品を作ったのは2014年・・・下手な政治評論家なんかよりも世の中の本質を的確にとらえているが恐ろしいところです。

聖戦士ダンバインとリーン翼

アマゾンプライムにて両作品が無料公開の対象になっていたので両方とも全話見て見ました。

お世辞にも人気の作品とはいえないのですが、その独特な設定や表現方法からカルト的な人気を誇る作品です。
特に聖戦士ダンバインについては生体ロボットをかなりリアルに描いています。

まあ、それはさておきとして監督である富野氏より込められたメッセージ性について、今回は科学的遊戯(SF)してみたいと思います。

富野氏は鬼才と呼ばれる事が多いですが、氏の独特の感性というかセンスの凄いところは世の中の人達がなんとなく思っている事を作品の中に盛り込む能力です。


聖戦士ダンバインとリーン翼の物語の骨格としては、現実世界に重なる形としてバイストンウェルという世界があり、そこへ行ったり帰ったりしながら物語が進む事にあります。
作中でのこの異世界は魂の安息の場所と言われているのですが・・・解釈によっては霊界や地獄、天国とも言えます。少し気づきにくいのですがバイストンウェル由来の人物や物は人非ざるものとして描かれています。ようするに霊や悪魔、天使などと同じ扱いです。

では上記ような構図の中で氏はどんなテーマを作品に盛り込んだでしょうか?
聖戦士ダンバインについては核兵器の恐怖です。そして、氏の独特な感性が導きだした答えは「核兵器が役に立たなかった時の恐怖」です。
恐ろしい事にこの予言とも言えるテーマは現実となります。1990年に起こった湾岸戦争を起点とするテロとの戦いです。このテロとの戦いにおいては核兵器は一度も使用されていませんし、使ったとしても有効ではないでしょう。
ちなみに聖戦士ダンバインは1983年の作品です。


続いて2005年に放映されたリーンの翼はどうかいうと・・・こちらについては第2次大戦の総括ともいえる内容で、本当に日本は悪かったのか?アメリカの戦争は正義なのか?という内容です。
恐ろしい事に2010年あたりから第2次大戦時の日本軍の情報が同様にでてきて、再検証が始まり、2018年の現在では憲法9条の見直し及び自衛隊の存在意義というところまで話が進んでいます。
まあ、作品の中では起こってしまった事実というのは変える事は不可能だから、現在は現在、生きている人にしかどうする事もできないで終わっていますが・・・


人の歴史というのは不思議なもので大きな物事が発生するときには、社会には何かしらの兆候が表れます。それを正確に読み取る事はできないのですが・・・富野氏は下手な専門家よりも読み取り能力に優れており、それが氏の作品にアクセントを添えています。
ちなみに氏の最新作は2014年に発表された「ガンダム Gのレコンギスタ」という作品です。

でわ、この辺りで。


祝!ダーリンフンラキス終了とエヴァ系アニメの終焉

先日、ダーリンフランキスというロボットアニメが放送終了しました。
作品の出来については賛否両論のようですが、私はこの作品は一つの転換点になるのではないかと思っています。

というわけで今回は日本のロボットSF作品について科学的遊戯(SF)してみたいと思います。
日本のロボットSF作品についてはおおまかに言って3つの区切りがあります。
②リアルロボット期
エヴァ期(別名世界系)

①についてはあまり詳しくないので割愛させていただきますが②以降についてはリアル世代というやつです。

②の始まりはかの有名な機動戦士ガンダムで社会現象を起こしました。
ガンダムの特徴としては、リアルさをだすために戦争を物語の主な舞台としました。また、ロボットをプラモデルなどの玩具として販売しそのリアルな造形が作品に説得力と資金をもたらしました。

リアルロボット系の作品は数多く作られましたが・・・最終系ともいえる作品が1988年に発表された機動警察パトレイバーです。
ロボットを玩具として販売するのはかわりませんが、よりリアルを追及する中でパトレイバー選んだ舞台は近未来ロボットを担当する警察組織の日常です。
当時の視聴した感想としては、リアル身近さを感じた作品でした。その反面、2018年の現在に改めてみると、すごく違和感のある作品です。作中の年代は1998年ですが作品には携帯電話もスマートフォンも登場しないからです。
いわゆるリアルが想像を超えてしまったパターンです。

この作品にてリアルロボットアニメはひとつの頂点を極めそして、終焉したとも言えます。

そして、この作品に後に登場したのが1995年に放送された新世紀エヴァンゲリオンガンダムと同様に社会現象を引き起こしました。
作品の特徴としてはロボットが機械というよりかは生物にちか生体ロボットいう点です。また、思考誘導で動いたりとかロボットと人間が一体化する事です。
なによりも特徴的なのが暴走するという点です。
物語の舞台としては世界規模で崩壊した世界及び世界規模で崩壊しつつある世界というのが特徴です。

ガンダムと同じくエヴァ系と言われる作品が数多く作られました。
ダーリンフンラキスもこの系統の作品なのですが・・・私はこの作品がエヴァ系と言われる作品のある種の最終系ではないかと思っています。
悪くいえばパクリアニメ、良く言えば究極のアレンジ作品ともいえます。

おそらく2~7年の間に大きな社会現象を起こすロボットアニメ作品が作られると予測しています。

でわでわ、このあたりで。